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先祖代々続いてきた農地をテニスコートへ日本で数少ない世界水準のコートで選手を育成 (有)シード 代表取締役社長 田中芳則氏

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ハレ街メディアでは、未来のハレを創り出す挑戦者たちの物語を発信しています。今回は、テニスクラブを運営する有限会社シード(埼玉県三郷市)代表取締役社長の田中 芳則氏に取材を実施。テニスとの出会いやコートへの思い、創業の経緯や社長が考える「ハレノヒ」についてお話を伺いました。
(聞き手:ハレノヒハレ 大塚辰徳 編集:ライフメディア 岸のぞみ)

世界水準のハードコートを持つ本格テニススクール

まずは御社の事業内容について改めて簡単にお聞かせください。

田中 芳則氏(以下、田中氏): 6歳から80歳まで、年齢別・レベル別のテニススクールを運営しています。趣味でテニスを嗜む初級レベルからプロを目指す選手コースの方までさまざまで、グループレッスンやプライベートレッスンも手掛けており、現在約600名の生徒さんを10名のコーチとともに指導しています。

 他にクラブ会員向けのコート利用や一般の方向けのレンタルコート運営も行っており、休日などにはテニス大会も主催しています。

御社の強みについてもお聞かせいただけますでしょうか。

田中氏:テニスはしばしば天候との闘いになります。それまでアウトコート4面と冷暖房完備のインドア1面だったシードでしたが、2022年より開発をはじめ、2024年5月に雨でも使用可能なドーム(テント式)コート4面とアウトコート1面が完成しました。おかけさまでインドアコート5面を有し、雨天・酷暑・極寒・強風に悩まされることなくお客様にご利用いただけています。

 日本では軟式テニスがあるため、公営のテニスコートでは砂入り人工芝コートを採用していたり、テニススクールなどではカーペットコートや人工芝のコートが採用されたりしていますが、世界ではハードコートが一般的。公式大会でもハードコートが採用されています。

 世界水準のコートに慣れていただく意味でもシードではすべてのコートでハードコートを採用しているんですよ。また掃除やメンテナンスにも力を入れており、営業前には毎日2時間かけて丁寧に掃除を行っています。

 このような施設面の充実度やメンテナンスにも現れるように、根っこにあるシードの強みは、テニスが好きだということ、利用者の立場に立ったおもてなしの心をもって運営するということを社員が常に心において取り組んでいることです。ご利用の皆様が気持ちよく充実のテニスライフを送っていただくことが喜びです。

サービス業の本質を学ぶため、ディズニーランドでアルバイト修業

そもそもテニスを始めたきっかけはどこにあるのでしょうか。

田中氏:大学時代に友人に誘われてテニスをしたのが始まりで、社会人になってからも定期的にテニスを楽しむようになりました。大学卒業後に勤めていたのは広告代理店。富士フイルムなどを得意先としてセールスプロモーションの仕事をしていましたが、とにかく激務。毎日帰宅するのは24時という生活でした。

 そんな生活の心の支えとなっていたのがテニスです。月に一度は学生時代の友人など、テニス仲間10名ほどでテニス合宿を開催していました。ドライブ好き、旅好きの仲間たちと家族ぐるみであちこち行ったものです。時にバスをチャーターして軽井沢や河口湖などに出かけるのですが、メンバーの中に雨男がいたらしく、かなりの確率で雨なんですよ! 仕方ないから大部屋の畳の上でテニスを始めたこともあり、宿主さんにひどく怒られたものでした(笑)

テニスで事業を始めようと思ったのはいつ頃のことですか。

田中氏:毎月のテニスだけを楽しみにする生活を5年ほど送っていると、巷になかなかいいコートや施設がないことに気が付き始めました。次第に満足できるようなテニスクラブを自分で築いてしまおうかという気持ちが強くなり、起業が頭をちらつきはじめます。

 実は実家はパセリやサラダ菜などの西洋野菜を作ってレストラン向けに卸していた農業を営んでいたので、祖父の代からの土地があったんです。農家はもう廃業にしようというタイミングでしたし、父は埼玉県バレーボール協会の会長をやるほどのスポーツ好きで理解もあった。土地もある、条件もそろっている。これはやるしかないと腹を決めて、31歳の時、1988年4月に創業しました。

広告代理店から心機一転、実家の農地をテニスクラブに変えて新たにビジネスを始めた田中社長。どのように事業化を進めていったのでしょうか。

田中氏:まず広告代理店で営業経験はありましたが、テニスクラブというのはサービス業で営業とはまた異なるスキルが必要だと考えました。農地をテニスコートに変えるには土地の転用にも1年の準備期間が必要です。設計から企画、宣伝、また喫茶営業のための免許取得など、考えられる準備に取り組んでいきました。さらに、会社も辞めていましたのでサービス業についても学ぼうと考えました。

 そこで選んだのがディズニーランド。折しも東京ディズニーランドはテーマパーク運営の最前線であり、ちょうどシードの開設年には開設5周年を迎えるということでさらに盛り上がりを見せていました。中でもサービス業の本質ともいえる掃除の仕事に焦点を当て、レイバーサービスという朝の施設内掃除担当としてアルバイトを始めました。

 広いアメリカ川でモーターボートを操縦して落ち葉を拾ったり、ジャングルクルーズの動物を磨いたりするのは非常に貴重な経験となりました。働いていたのが冬だったので早朝は空気が澄んで気持ちがよく、本物の鴨が飛んでいくのをすがすがしい気持ちで眺めながら仕事をしていました。

 営業時間前なので、薄暗い暗闇の中で動いていない人形の間を通るのは結構な恐怖でしたし、船が近づいてくると人形が動き出すので、磨いている最中に突然人形が動き出して川に落ちる人がいたりとさまざまなトラブルもありましたが、きれいに掃除をして気持ちよく過ごしてもらうことはサービス業の本質であることを改めて感じた4カ月でした。

 テニスクラブを始めてからも、時間を決めてしっかりと掃除をすること、敷地でない近隣の清掃も重要であると考え、近くの歩道清掃にも力を入れるなど、この時の経験を忘れることなくいまでも基本に忠実にクラブ運営を続けています。

社名の由来についても教えてください。

田中氏:当クラブの所在地である三郷という街にはそれまでテニスクラブがありませんでした。したがって、小さくはじめて大きく育てようという思いで、「種」の意味を持つSEEDと名付けました。「種」には「物事の本質」という意味もあるようで、合わせて意味深く、襟を正す気持ちでもありました。

 テニスの試合ではトーナメント形式で強い人が割り充てられる場所をシードと言ったりもしますよね。そういう強い人を育てていく、という意味も込めたダブルミーニングにしています。

天候に悩まされた半生 ドームコートの新設で起死回生

今に至るまでに経営の面で苦労された時期はありましたか。

田中氏:アウトコート4面でクラブをスタートしました。クラブ会員制の運営および大会やイベント、そして空いたコートでレンタルコートの運営、テニススクールの運営、喫茶の運営、物販の運営の5本柱です。

 オープン以降、9月の秋雨前線の影響で雨の日が続き、結局月の半分以上が雨で潰れてしまったので、苦労して企画したイベントもほとんど売り上げになりませんでした。そこで翌年、自己所有の目の前の倉庫を一部改装してインドアコートを1面新設したことで少し経営が安定しました。

 しかしながら、2005年頃になると市内に大型ショッピングセンターが出来たり介護や転勤などで生活形態も変わってきたりするなど、テニスクラブ会員となってテニスライフを楽しむ顧客層が激減。それまでクラブ会員が我が家のようにテニスを楽しみ、毎日毎週、朝から夕刻まで過ごされていたクラブライフの形が次第になくなっていきました。結果、週末でさえ空きコートが目立つようになり、気づけばクラブ会員が20名以下にまで減ってしまうなど、苦労は続きました。テニススクールの方は何とか生徒数もキープできていましたが、アウトコートでは大会運営やレンタルコート利用もお天気次第という部分に泣かされていました。

そのような苦しい時代をどのように乗り越えられたのでしょうか。

田中氏:2010年頃になると漫画『テニスの王子様』がスマッシュヒットを記録したことを皮切りにテニス漫画が増え、錦織圭選手などが世界を舞台に活躍を始めたことでジュニア層を中心にテニス人気が過熱していきました。そこで事業の中心をテニススクールへと変更。大人や子どもの趣味需要のレッスンだけでなく選手コースも追加し、全国大会を目標にするようなジュニア選手の育成まで、幅広く力を入れるようになりました。おかげさまで今では県大会、関東大会で上位の成績を狙える子どもたちが多数育ち、各種全国大会に出場するジュニア選手も毎年輩出することができています。

 それでも屋内コートは依然1面しかなかったため雨には常に悩まされており、主催するテニス大会の前日には決まって胃痛を起こすほど天候への不安が続きました。

 ちょうどコロナで苦しんでいた時期でもあり、このままでは先細りするばかりでした。そこで「次世代へ、さらにはテニス界にも貢献できる存在でありたい」と3年前に心を決め、それまでの敷地に4面のドーム屋内ハードコートとアウトコート1面を新設するという一大プロジェクトを決行しました。

 工事中は部分的に場所を規制しながら営業自体は継続する方法を選択。コートの新設だけでなく、駐車場の造成や屋根付きミニコートのサーフェス改修など、周辺施設の開発にも取り組みました。他にも完成までにはさまざまな苦労がありましたが、2024年、ついにコートが完成。新生シードテニスクラブの営業がスタートしました。これによって少しずつ大会運営やレッスン、レンタルコートの売り上げなども安定するようになったのです。

 それでも未だにお金も人もまったく理想通りではないんですよ。でもようやく組織として育ってきたと感じますし、理想に近づきつつあるという手ごたえを感じることができるようにもなってきました。

そんな田中社長にとって、これまでで一番の「ハレの日」はどのような日でしたか?

田中氏:ドームコートができたときですね。その姿は美しかったし、やりたいことがやっとできるようになってきたという思いも強くなりました。大会運営やレンタルコートでの売り上げ予測がつきやすくなったこともよかったと感じます。何より、利用者の皆様が喜んでくださって、感謝の言葉をいただけるときが最高の喜びです。

 世界水準のハードコートで天候に左右されず快適にテニスが出来ること。そしてそれにより、シードがテニス界にも意味のある存在であると思える晴れ晴れしい自負こそ、大きな励みです。

今日(取材日)の空はそんな田中社長が大切にしてきた快晴です。今日の空を人生に例えるとどのようなものになりますか?

田中氏:大会などのイベントを主催してみんなが楽しんでくれることがとてもうれしいので、今日の空はみんなの笑顔が花開くイベント開催の日に似ていますね。

そんな未来の晴れを実現するために最も大切にしていること、そして今後の展望についてお聞かせください。

田中氏:まずは健康でいることですね。55歳のときにがんになって手術をしたり、62歳のときにインドアコートの補修・清掃作業中に屋根から落ちてドクターヘリで搬送されたりするなど、これまでさまざまな危機を体験してきました。ドクターヘリで緊急搬送されたときは2カ月入院して経営を離れることになってしまったので、まずは健康でいることが大切だと感じます。そのときにお世話になった医大病院や、その後のリハビリ病院の医療従事者の皆様には感謝するとともに、プロの仕事で使命をまっとうする姿には見習うべきことも多いと感じました。

 同時に、死ぬ気になれば何でもできるという感覚も芽生えてきました。これまでにも「お金はないけれど必要なことだからやろう!」と決めたことはたくさんあります。

 あとは徳を積むことでしょうか。人がいいことをすると、その恩恵を受けた誰かがまた違う誰かにいいことをしてくれる。映画『ペイ・フォワード 可能の王国』の影響ですが、いい考え方だなと感じますね。喜多川泰・著の書籍『運転者』(ディスカヴァー・トゥエンティワン/2019年刊)に影響を受けた部分もあります。

 そしていまいる生徒さん、スタッフがいい人生を歩めるように後継者を育てていきたい。営業時間が長く、朝(土日は早朝)から夜22時半までの営業を交代制で勤務しているので、「みんなで集まって飲み会をしよう!」というようなタイミングが以前ほどもてなくなりましたが、密なコミュニケーションを取れる体制はもっと整えていきたいですね。そして、新しいスタイルのテニスやテニス以外の競技、サッカーやフットサル、バスケットボールなど、新しいことにもチャレンジしていけたらと思っています。

取材を終えて 撮影小話

大塚:シードの立ち上げの話は聞いたことがなかったので新鮮でした。社長はいろんなことを経験されていますが、印象的だったのが、屋根から落ちてドクターヘリで運ばれたこと。その理由が掃除好きでがんばりすぎた結果だったというのがいかにも社長らしいなと思いましたね。

田中氏:九死に一生を得たということもあって、今の世界は何だかパラレルワールドみたいに思えるときもあるんですよ。もう何をやっても恥ずかしくないね(笑)

大塚:それに、社長がこだわった世界基準のコートは、皆さん本当に驚かれるんですよ! このような取り組みを応援したかったので、ハレ街プロジェクトには是非シードさんにも参加してもらいたいと思ってお声がけしました。しかも社長は社員さん思いなので、生徒さんがそのままコーチになって社員さんになることもあるんですよ。社長が好きで入社してくるんだなと改めて感じます。

田中氏:大塚さんは普通の営業担当者とは少し違うよね。親しみやすいし、すごく親身になってくれる。いつも知らない世界を教えてくれるんですよ。最近またギターを始めようと思ってるんですが、大塚さんは音楽好きで、音楽も詳しいんだよね。

大塚:ギターの会社さんにもお繋しますよ(笑) 今日はありがとうございました。これからもよろしくお願いします!