ハレ街メディアでは、未来のハレを創り出す挑戦者たちの物語を発信しています。今回ご登場いただくのは、住宅のメンテナンスを手掛ける富士コントロール(埼玉県久喜市)代表取締役の小高正嘉(おだか・まさよし)氏。父親が創業した会社の承継を決意した経緯や、これまでに直面したピンチをどう乗り越えてきたのか、話を伺いました。
(聞き手:ハレノヒハレ 代表取締役 稲葉晴一 編集:ライフメディア 尾越まり恵)

専務の一言で後を継ぐ覚悟が決まった
富士コントロールの事業内容について教えてください。
小高正嘉社長(以下、小高氏):埼玉県久喜市を中心に、住宅のリフォームやシロアリ消毒など、建物のメンテナンスに関わる事業全般を手掛けています。売り上げの6割程度が個人宅のリフォーム、次いで多いのが、浄化槽の維持管理業務、そして集合住宅において退居後に次の入居者が入る前の原状回復工事です。
創業の経緯について教えてください。
小高氏:創業は1974年で、私の父が警察官を辞めてシロアリ消毒を始めたのがきっかけです。創業当時の話を父から詳しく聞いたことはありませんが、我が家のテレビはモノクロでしたし、事業が軌道に乗るまでは生活が苦しかったのだと思います。当時の流行だったのか、脱サラすると髪型をパンチパーマにする方が多かったように思います。父だけでなく従業員も大半がパンチパーマだったので、周囲からは堅気には見られなかったようです(苦笑)。父は寡黙な人で、多くを語りませんでしたが、子どもの頃から「人に迷惑をかけるな」ということは厳しく言われていました。
小高社長は後継ぎとして育てられたのですか?
小高氏:いいえ、後を継ぐことはまったく意識していませんでした。特に将来なりたいものもなく、大学卒業後は東京のIT企業に就職しました。人と接する仕事はしたくないというのもありましたし、特に営業職だけは避けたかったというのもあります。IT業界といえば当時の最先端。まだWindows95が世の中に出る前だったので、パソコン通信を使った電報のシステムや銀行のシステムの開発を担当しました。
3年ほど働いた頃に少し精神的に疲れてしまって、電車に乗ると腹痛で悩むようになったんです。これでは働き続けられないと思って退職し、家に引きこもるようになりました。すると、父が「すぐに実家を出ろ。そしてうちで働け」と言って、近くのアパートに引っ越しをさせられ、半ば強制的に富士コントロールで働くことになりました。新築住宅を引き渡す前の清掃の仕事を担当しましたが、給与の手取りは15万円程度で、周囲の社員より低かったかもしれません。息子だからと特別扱いされることはなく、そのおかげで社員たちから反発を受けることもありませんでした。
1年ほどすると「営業もやれ」と言われ、苦手な営業も担当することに。当時は辞めたくて仕方なかったですね。
それでも、後を継がれています。きっかけは何だったのでしょうか。
小高氏:辞めたい、辞めたいと言いながらも、当時は就職氷河期の真っただ中で、私は特別なスキルがあるわけでもないので、ほかの会社に転職する勇気は出ませんでした。気が付けば入社から16年ほどが経ち、父が私を取締役にすると言い始めたんです。そこで私は「それなら辞める」と反発しました。すぐに当時の専務に呼び出され「だったらいますぐ辞めてくれ!」と関西弁で怒鳴られ、それで火がつきましたね。なぜあなたにそんなことを言われないといけないんだ、負けたくない!という気持ちから、気が付けば「絶対に辞めない!」と言い返していました。今思えば、それが腹をくくった瞬間でした。辞めないということは、後を継ぐということですから。専務の策略だったのか、本当に私のことを迷惑だと思ったのかは、今となっては分かりません。取締役を経て、2009年に社長になりました。

リーマン・ショックで売り上げ4割減
お父様から社長としての心得や経営について、教わったことはありますか。
小高氏:父はこうしろ、ああしろとは一切言わず、ただ「この会社をどうしたいんだ」と私に問い続けました。誰かのまねではなく、自分が会社をどうしたいのかを考え、それを社員に伝えていくのが社長の役割だ、と言われたのを覚えています。
社長になるまで損益計算表も見たことがなかったので、数字についても1から学びました。子どもの頃から会社が軌道に乗っていく様子を見ていたので、どこかで会社は放っておいてもこのまま継続できるだろうという思いがありました。社長業はもっと楽ができると思っていたんです。でも、実際は全然違いましたね。ピンチの連続です。
大変だったのはどんなことですか。
小高氏:まず社長就任直後にリーマン・ショックが起こり、その半年後に父が脳梗塞で倒れたんです。ある程度会社の数字について分かっていたつもりでいたのですが、実際に父と会話ができなくなってはじめて、自分が何も分かっていないことに気付かされました。ただ、今振り返るとその時期が一番必死に働きましたし、充実していた時間でもありました。リーマン・ショック以降、業績は右肩下がりで、売り上げが4割ほど減少しました。
どのように乗り越えられたのでしょうか。
小高氏:とりあえず自分の給与を最低限にしました。ひたすら経費を削減して、銀行に頼み込んで借り入れをしてしのぎました。リストラだけは絶対にしたくなかったんです。どのようにして社員に給与を払うかだけを考えていました。うちのような中小企業は人がすべてなので、社員を路頭に迷わせることだけはしたくないと今でも思っています。リーマン・ショックの後も東日本大震災やコロナ禍と大変な時期が多々ありました。
数々のピンチから得た教訓はありますか。
小高氏:不測の事態が起こったときに、どんな対策を打てるのか、複数の選択肢を考えるようになりました。逆に好調な時でも「だったらこんな方法でもっと広げられるのではないか」と幅を広げて考えられるようなったと思います。目の前の事象に一喜一憂せず、物事を俯瞰して見て、冷静に考えられるようになりました。
自ら考え、行動できる人を育てたい
これまでで一番のハレの日はいつですか?
小高氏:2011年7月1日、いまの事務所に移転した日ですね。従業員に少しでも快適な環境で働いてもらいたくて、私が社長になった時に「3年以内に新しい事務所を作ります」と社員の前で公約として発表していたんです。
その約束を果たし、新しい事務所に入ってまずは社員たちにお礼を言いました。「この事務所は俺が建てたわけではない。皆さんが頑張ってくれたおかげです」と。嬉しさと同時に、ここからがまた新たなスタートだと感じたのを覚えています。あの日が本当の意味で、自分が社長としてスタートした日だったと思います。
東日本大震災のタイミングとも重なり、父は借り入れをしても絶対に返せないからと事務所移転には反対しましたが、5年間で返済しました。その時に、唯一父に褒めてもらいました。

未来のハレのために、意識していることはありますか。
小高氏:自分が父に問われてきたように、若い人たちにも、自分はどうしたいのかを問い続けていきたいと思っています。誰かに言われたからではなく、自分でしっかり考えて、やりたいことを実現していってほしい。そんな人たちをたくさん育成できれば、未来は明るいものになるのではないかと思います。
今後の展望をお聞かせください。
小高氏:人材育成に力を入れながら、既存の事業をブラッシュアップさせていきたいですね。さらに、まったくの異業種にも挑戦したいと考えているので、ここから新しい種をまく準備もしていきたいと思っています。
取材を終えて
小高氏:新型コロナウイルス禍でもオンラインでの打ち合わせはほとんどしたことがありませんでした。今日、この取材が2回目です。正直、最初は気が進まなかったですが、これもまた新たな体験だとポジティブに受け止めています。
稲葉:コロナ禍でも小高社長は対面でのコミュニケーションを大事にされていましたよね。
小高氏:表情が見えないからと、コロナ禍でもマスクをせずに訪問してくれたのは稲葉さんだけです(笑)。長く寄り添ってくださるのがありがたいなと思います。
稲葉:もう10年ほどのお付き合いになるので、小高社長が過去に資金繰りなどで苦労されたお話はたくさん聞かせていただいていました。でも今日は社長就任時のお気持ちなど、また新たなお話が聞けて新鮮でした。常にご苦労があって、だからこそ会社が50年続いているのだなと改めて感じました。若い方もたくさん入社されて、さらに成長、発展しているのが素晴らしいなと思います。今日はありがとうございました。
