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曇りは歯がゆさと未来が映る「準備の空」うなぎの老舗、赤羽・川栄の三代目の挑戦(有)川栄 専務 石井勇介氏

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ハレ街メディアでは、未来のハレを創り出す挑戦者たちの物語を発信しています。今回取材したのは、1946年創業の老舗うなぎ(鰻)・焼き鳥店「川栄」で三代目として経営を担う、有限会社川栄で専務を務める石井勇介氏。東京北区の赤羽の地で、伝統を守り、新たな時代の価値観にも向き合い続ける石井専務の姿から、変化の中で大切にすべきものが見えてきました。川栄の歴史や家業を継いだ若き日々、そして石井専務が大切にしている人材教育について伺います。
(聞き手:ハレノヒハレ 大塚辰徳 編集:カワラバン 間真美子)

20歳から始まった、三代目の経営ストーリー

展開している事業内容について教えていただけますか?

石井勇介専務(以下、石井氏):川栄は、1946年創業のうなぎ料理と鶏料理を専門とする飲食店です。東京・赤羽に根を張り、三代にわたり地域の皆さまに支えられてきました。現在は「店内飲食」「店頭販売」「出前」の3つの柱で営業しております。川栄で提供しているうなぎは、すべて国産です。川栄独自のスタイルでふっくらと香ばしく仕上げる蒲焼きは、長年にわたり看板商品となっています。また、戦後間もない創業当初に取り入れられた「ローストチキン」も、今なお不動の人気メニューです。私の代からは、新たに「ほろほろ鳥」の取り扱いを始めました。

戦後翌年に創業し、2026年には80周年を迎えます。創業の歴史を教えてください。

石井氏:私の祖父にあたる、初代・石井鐡五郎(いしいてつごろう)が創業しました。もともとは機械工をしていたのですが、戦後に復員してから職を探していた際、祖母(妻・千代)の実家が営んでいた船宿の影響で川魚料理を始めたのがきっかけです。川魚に加えて、当時は親鳥を使った鶏料理も提供しておりました。のちに赤羽台にあったGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に鶏を卸す関係で、米軍のコックからローストチキンのレシピを教わったそうです。このローストチキンは現在もメニューに残っていて、創業当時から変わらぬ味を守っています。

創業当初からメニューは大きく変わっていないのでしょうか?

石井氏:そうですね。柱となる国産うなぎと鶏料理の店であることは、創業当初から変わっていません。変化があったとすれば、やはり私が入る少し前に導入した「ほろほろ鳥」です。

 ほろほろ鳥はフランス原産の鳥で、育てにくいと言われています。岩手県のほろほろ鳥専門農家「石黒農場」から仕入れており、貴重な食材であることから、他店との差別化ができる点も魅力に感じています。

 店近くのバーの店主がたまたま石黒農場の同級生だったことがきっかけとなり、取り扱いを始めました。ほろほろ鳥は、コクがあって肉質がやわらかい、ジューシーな肉質です。今ではうなぎ料理とほろほろ鳥を使用した料理が、川栄の2大看板メニューとなっています。

お店に新しい要素を取り入れてこられた石井専務ですが、ご自身が家業に関わることは、いつ頃から考えていたのでしょうか?

石井氏:物心ついた頃から、いずれは自分が家業を継ぐのだろうという意識はありました。私は次男ですが、兄は職人としての道を選ばないことが早い段階でわかっていたので、自分が自然とその役割を担うことになると感じていたんです。ただ、迷いがなかったわけではありません。

 高校卒業の頃は、機械が好きだったこともあって、自動車整備の道に進もうかと真剣に悩みましたね。幸いにも両親が「やりたいことをやっていい」と背中を押してくれたので、一度は車業界に入り、整備士として働き始めました。親が高齢になってきたことをきっかけに、2006年、20歳の頃に川栄に入り、本格的に修行を始めました。

最初はどのようなお仕事からスタートされたのでしょうか?

石井氏:店に入った当初は、仕込みや調理、ホールでの接客まで一通り担当していました。店舗の規模も今より小さく、人手も限られていたため、厨房で調理をしながら接客するなど、現場全体を横断するような動きが求められました。

 とにかく、目の前の業務をひたすらこなす毎日で、まさに“現場に飛び込む”という感覚でした。ただ、その中でお客様の反応やスタッフの動きなど、飲食店の運営に必要な感覚を肌で覚えていったと思います。後になって振り返れば、あの時期の体験こそが、今の経営に通じる実践的な学びの原点だったと感じています。

修行期間で大変だったことはありましたか?

石井氏:当時は、今のように労働時間や働き方への意識が柔軟ではなく、1日17〜18時間働くことも珍しくありませんでした。若さに助けられていた部分もあります。努力すればその分結果として返ってくる環境だったため、自分自身の限界に挑むような感覚で日々を過ごしていました。

 人手が足りない中でどう店を回すか、がむしゃらに学び続ける毎日でした。今になって思えば、そうした経験があったからこそ、後に人を動かす立場になったときに、現場目線での判断ができたのだと思います。

人手不足という制約の中で、現場と組織の課題にどう向き合われたのでしょうか?

石井氏:私が店に入った当時は、ちょうど世代交代の過渡期で、現場の人手不足と組織の硬直化という2つの課題がありました。お客様の数は変わらないのに、人員は減っていく一方。サービスの質を落とさないためには、自分が率先して動くしかないと腹をくくりました。人の倍の仕込みをこなし、営業後に仕込みを続け、体力勝負の毎日でしたね。

 とはいえ、現場をがむしゃらに回すだけでは根本的な改善にはつながらないと感じていました。そこで、人が気持ちよく働ける環境をどうつくるか、自分なりに考えを巡らせるようになりました。経営やマネジメントの書籍を読み漁り、言葉の選び方や接し方を変えてみたり、業務の進め方を見つめ直したりと、少しずつ工夫を重ねていきました。

 もちろん、変化を受け入れられずに辞めていった人もいましたが、「お店を良くしたい」という私の思いに共感してくれるスタッフもいました。社長が任せてくれていたこともあり、改革に取り組めたことは大きな経験です。

人を育てることが、最大の経営課題だった

入社して19年目になりますが、経営で厳しい時期はありましたか?

石井氏:幸いにも、大幅な売上減に直面することはありませんでした。特に新型コロナウイルス禍においては、もともと「店内飲食」「店頭販売」「出前」という三本柱で事業を展開していたため、大きな打撃を受けず、逆に例年よりも売り上げは上がりました。

 出前についても、外部サービスを介さず自社で運用していた分、柔軟に対応できたのが奏功したと思います。私が入社して5〜6年がたった頃には、配達エリアを広げたり、バイクによる配送体制を整えたりと、少しずつ新たな試みにも着手していました。今振り返ると、あのときの取り組みが、後の困難を乗り越える土台になっていたと実感しています。顧客にも長く浸透していた分、広報に大きなコストをかけずに展開できたのも強みでしたね。

一方で、人材面では課題もあったのではないでしょうか。

石井氏:まさにそこが、最も大きな経営テーマです。特に近年は、スタッフの価値観や働き方に対する意識の変化を強く感じています。私自身の世代とのギャップも生じ始めており、単に待遇を整えれば採用が進むという状況ではありません。むしろ、給与以上に何を優先するかという点で、若い世代との間に明確な違いがあると実感しています。

飲食業界は採用難の声も多く聞かれます。外国人の採用には取り組まれているのでしょうか?

石井氏:外国人の応募数でいえば、日本人の3~4倍はあります。実際に採用したこともありますが、当店で扱う食材の特殊性があり、ご年配のお客様も多いことから、日本語での繊細な対応が求められます。結果的に、現時点ではマッチしにくいという結論に至りました。彼ら彼女らは意欲もあり、誇りを持って働こうという姿勢も感じるのですが、語学面と働く時間の制約が壁になってしまいました。

採用や育成において、特に課題として残った経験はありますか?

石井氏:人材育成については常に課題意識を持っています。味や価格ももちろん大切ですが、最終的にお客様の心を動かすのは「人」。実際、どれだけ味に自信があっても、人の印象で店の評価は大きく左右されます。組織としての力を高めるには、スタッフの質をいかに継続的に維持・向上させていけるか、そこに尽きると感じています。

 特にここ最近は、朝から現場に立ち、出前のない時間帯を休憩に充てるというスタイルで働いています。しかし、私が不在になると、指揮を執る存在がいなくなり、個々の意見が強くなって組織としての統一感が損なわれる状況もありました。店舗全体の雰囲気に一体感がなくなってしまうと立ち行かなくなります。改めて初心に立ち返って取り組んでいきたいと考えています。

 また、制度面でも従業員が安心して働ける環境の整備を進めています。直近では、ハレノヒハレさんの支援を受けながら、確定拠出年金制度の導入を決めました。持続可能な経営の前提には「人」の存在があります。単に給与や待遇を整えるだけでなく、従業員一人ひとりが納得できる“働く理由”を、会社とともに見いだしていく必要があると考えています。

人材を育成するうえで、大切にされていることはありますか?

石井氏:まずは、否定しないことですね。飲食業が初めてという未経験の若者が多い中で、最初にかけられる言葉によって、その後の姿勢やモチベーションは大きく左右されます。だからこそ、基本的にはまず相手を受け入れ、認める姿勢を大切にしています。

 できないことがあれば、一緒に乗り越えていけばいい。そのような前向きな関わり方を意識しています。小さなことでも成功体験を積ませることで、自信が育ち、自ら成長していける人材になると考えています。

失敗を恐れず、挑戦を形にしていく

伝統を受け継ぎながら、挑戦していく姿勢が大事なんですね。

石井氏:私自身、常に「やってみて違えば修正すればいい」という柔軟な姿勢で臨んでいます。その意味では、大きな失敗をしたという感覚はあまりなく、むしろ何かが起きても「失敗」とは捉えていないのかもしれません。時代の変化に合わせて、過去のやり方に固執せずに前進する姿勢こそが、継続の鍵だと考えています。

ハレノヒハレとの出会いが何か影響を与えたことはありましたか?

石井氏:大きな影響を受けました。先ほど触れた確定拠出年金制度の導入も、ハレノヒハレさんの支援があったからです。ただ、それ以上に心に残っているのは、「人を大切にする」という私の方針に深く共感していただいたことです。長年、自分の信じる方針を基に試行錯誤しながら実行してきた中で、それが間違っていなかったと実感できたのは大きな自信になりました。彼ら彼女らとの出会いは、今後の取り組みに向けた後押しになっています。

ご自身にとって「これまでで一番のハレの日」はいつでしょうか?

石井氏:やはり、チャンスをつかみ、それを実現できた瞬間ですね。以前から構想していた店舗拡大に向けて、準備を重ねてきたことが実を結んだタイミングです。もともと川栄は小さな店舗だったのですが、現在は両隣、そして斜め前にまで拡大しています。この変化は、私にとって大きな転機であり、自分の成長を象徴する出来事です。店舗が空くタイミングを逃さず、意思決定できたことが「一番のハレの日」だったと感じています。

今日(取材日)の空模様を“人生”に重ねるとしたら、どのような空だと思われますか?

石井氏:今日は曇り空ですが、今の自分の状況と重なっているようです。挑戦したいことは山ほどありますが、まだすべてに着手できていない現状があります。それが結果として周囲に良い影響を与えきれていないのではという歯がゆさも感じています。あえて表現するなら「一度、雨が降るかもしれない空」でしょうか。

 ただ、曇りがずっと続くとは思っていません。必ず晴れる日が来ると信じていますし、今はその「晴れ」に向けて準備を重ねる時期だと捉えています。だからこそ、今日の空は「準備の空」ですね。

編集後記

大塚:私はもともと赤羽には15年間暮らしていたことがあり、石井専務と出会う前から、お客として川栄さんを使わせていただいていたんです。赤羽といえば、安くてにぎやかな“飲みの街”という印象が強いかもしれませんが、川栄さんは、そのなかでも孤高の存在ですよ。接待にも使える数少ないお店として、私も随分使わせていただきました。

石井氏:ありがとうございます。

大塚:著名人の方も来店されますし、『孤独のグルメ』にも登場するなど、広く支持される老舗中の老舗です。そんな川栄さんの魅力を自分の肌で感じていたからこそ、ハレノヒハレとして支援に入る際は「ぜひとも自分が担当したい」と申し出ました。

 石井専務とお話しするなかで、一緒に“山椒ハイボール”を考案したこともありましたよね。
「ワインも合うかもしれませんね」という何気ない会話から、実際のメニューとして取り入れていただいて。そんな距離感で伴走させていただけるのは、本当に営業冥利に尽きます。